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ことりと郵便受けに落ちる手書きのお手紙のように...


by asamachiasako-726
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7/26がお誕生日だった。
たまたま翌日7/27がお誕生日の友達と合同で、BBQでお祝いしてもらった。
大阪の服部緑地公園は雲一つない真夏の晴天。
苦しいこともあるけど、楽しんで生きていこうと思う。
50代、出来ることはまだまだいっぱいある。
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2015.7.26 横内亜砂子
# by asamachiasako-726 | 2015-07-28 03:44

『西へ』

『西へ』_b0082758_2193019.jpg

森山直太朗オフィシャルコンサート『西へ』神戸国際ホール追加公演、参加しました〜。
二階席から直太朗くんと会話しちゃったよ(笑。
一年に一度、必ず彼から元気を貰える。
ありがとう!


2015.5.22 あさまちあさこ
# by asamachiasako-726 | 2015-05-23 02:13

紫陽花

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娘が母の日に紫陽花を贈ってくれた。
若い頃に私が勤めていた、名古屋のお花さんからの配送。
嬉しい…。

2015.5.10 あさこ
# by asamachiasako-726 | 2015-05-09 06:46
「おめでとう!」と「みどりのくまちゃん」_b0082758_1512629.jpg

テディベア恐るべし!
阪急西宮ガーデンズの阪急デパート(4階までしかなくてちっちゃいの)でやってたテディベア展で、ついうっかりこのクマちゃんを衝動買いしそうに…笑笑。
なんと17万!
写真では伝わらない可愛さとユニークさなんだけどなぁ、無理だよなぁ、まさかなぁ、当たり前だよなぁ。
イギリスの作家さんの作品で、草色に染めた山羊の山羊の毛が使われている。

最近、Facebookにばかり書いていてブログをほったらかしにしていた。
気づいたら昨日が娘の誕生日、明日は森山直太朗くんのお誕生日ではありませんか!

フライングですが…、

『直太朗くん
39歳のお誕生日おめでとう
ございます』

17万のくまちゃんの写真をプレゼント(笑。

このブログを書き始めてからもう9年だ。
延59576人の方々が読んでくださった。ありがたいことだ。
私自身も時々読み返したりしている。自分の過去の時間と想いの記録として。

色々あったなぁ。
でも今は平和だなぁ(笑。

個人生活の中で私は平和呆けしているけど、世界は日本は今、きな臭い時代に入りつつあるように思える。
油断していてはいけない。

今日あったこと、思うこと、感じること、考えることを、ぽちぽちながらも書き続けて行こうと思っています。
末長くよろしくお願い致します。


2015.4.22
あさまちあさこ&横内亜砂子
# by asamachiasako-726 | 2015-04-22 14:43

阪神淡路大震災が起きてから、今日で20年になる。甚大な被害を受けた、神戸市も芦屋市も西宮市も、息を吹き返し完全に立ち直った。

幼かった娘は大人になり、我が家の三人ももうすっかり落ち着いて暮らしている。

しかしながら、我々は遺族ではない。大切な人を亡くした人には、震災は永遠に終わらないのだ。

東北の震災からも、早四年が経とうとしている。16年後にはなんとか平静を取り戻せることを切に願う。

しかしやはり、遺族にとっては生涯にわたる喪失であり、また、原子力発電所の事故による放射能の問題は、100年単位で考えねばならぬものであろう。

阪神淡路の震災体験者は、心より福島東北の方々を応援している。


以下、2007に『あさまちあさこのあなたへの手紙』というブログに書いたものを再掲する。

震災に遭いながらも“遺族でない者達”の方がずっと多い。報道には載らない私達の気持ちを書いている。

拙文だが一読してみて欲しい。


やはり今日も、私はテレビを観ない。


2015.1.17   横内亜砂子


*****************



1995年冬、お正月気分もすっかり終わった、ただなんでもない日になる筈だったある日。まだ夜も未明を迎える前の暗闇の最中、誰もが何を怖れることもなく安らかな眠りを眠っていた時。
突然の、それもたった数秒間の出来事が多くの人のその後の人生を変えることになった。
1.17は、決して忘れることの出来ない特別な日になってしまった。

報道と、報道に目を凝らして見入っていた人達は、当然のように他のもっと面白いことに夢中になって行った。記念日だけに鎮魂のセレモニーをまた眺めてみたりする。

古くて狭い借家の小さな庭には、
直径10cm以上もある真っ白な夕顔の花が、毎夕4時頃に100輪近く開いた。
朝起きて夜眠るまで、この世に生まれ出たことが嬉しくてたまらないというように、そこいら中をちょこちょこ走り回って笑っていた幼い娘と、そして30代に入ったばかりだった私と夫。
あのささやかな平和は、今も戻って来てはいない。

10年後に黄色の表紙の小さなクロッキーノートが偶然見つかる。
その中程の1ページに短い文がある。

『今、壊れかけた家の中でこれを書いている。
ボロいとか古いとか、いつも文句を言っていたけれど、ある日突然、何の予告もなく、なじんだ家で暮らすなじんだ日常を奪われた。
突然のさよならで、名残を惜しむ間ももらえなかった。
もうこの家で眠ることはない。
地震の後が戦争の後に例えられることがあるけれどそれは違う。何故なら、今回は圧倒的に多数の人が、一応自分には無関係でいられるからだ。』

あの大地震の後で、こんな僅かなことしか感じなかった筈はない。気持ちが生々しいうちに、壊れた家の中で何か書きとめておきたかったのだろうが、多分、繰り返す余災が怖くて短時間しか家の中にいられなかったのだと思う。
皮肉なことにこのノートの1ページ目には“畑の日記('93.5.1~)"と表題が書かれている。
一階と二階で二戸一の形式になっていた借家だった。その一階の住人が引っ越し、友人でもあった大家さんの好意で一階とその前の庭も家賃無しで借りられることになった頃の記録だ。
4m四方もない位の小さな庭を夫と汗だくになって耕し、野菜を作ろうと張り切っていた。作付け予定の図まで描いてある。買った苗の値段やら植える時期やら、各野菜ごとの注意事項、追肥について。夕顔を垣根に這わせるような場所に植えたことも。
二十日大根の初収穫はビックリマーク付き。豆の芽が出たとか、キュウリに小さい実が付いたとか。娘にお砂場セットを買ってやったらよろこんだ、なんてことも書いてある。赤ちゃんそのものの娘の寝顔のスケッチが紛れ込んだりしている。

あの地震の半年前の記録だ。
前出の一文がこのノートに書かれてあったのは、無作為の結果だろう。滅茶苦茶になった部屋の端の方にあって、たまたまこれが引っ張り出せたというだけのことだ。

西宮市甲陽園にあった私達の家は、築40年程経っていたが、半壊とはいえ屋根が落ちるということはなかった。
重い嫁入り箪笥が無かったことも幸いして家族の誰もかすり傷さえ負わなかった。
徒歩でほんの5分程の夙川あたりでは、同じくらいの築年数の家の屋根が落ち、一階で寝ていたお年寄りや、落下物の衝撃に対して脆弱な幼い子供が亡くなった。

避難所の甲陽園小学校に配られる新聞には、小さな活字で書かれた死亡者の名前が増えてゆく。一週間近く過ぎると見開き二頁の半分以上の面積を名前が埋め尽すようになる。一人あたりのスペースは横に4mmと縦に2cmほどの長方形だ。同じ名字の名前が続く。ヨネさん、翔くん等と。
あの本当にに小さな長方形の中にもし「横内かるな」と書かれていたら…。
私達は本当に幸運だったのだ。命拾いしたのだ。
私達の二才の娘は、赤いセーターを着て体育館の中をはしゃぎまわっていた。

家を失い、顔も洗えず、ストーブも無く、疲れ果てて途方に暮れていたけれど、命のあることには感謝しなければならなかった。
“何故こんな目に会わなければならないんだろう”という負の感情と、“もっとケタ違いに辛い思いをしている人達がいるのだから”と自分を叱る感情の板挟みになる。

その葛藤には、娘の着替えとオムツだけリュックに入れて私の実家のある名古屋に一旦身を寄せることになってから、もっと苦しめられることになった。
十日もお風呂に入っていないよれよれの姿で、西宮北口から阪急電車に乗り、とりあえず大阪梅田駅にたどり着く。そこはワンレングスのロングヘアに豹柄のボディコンシャス、シャネルのバッグにハイヒールの別天地だった。キラキラ光る照明が眩しい。
「何故なの?」怒りや情けなさやどっと来る疲労感。ビジネススーツに挟まれて新幹線と地下鉄を乗り継ぎ、名古屋の実家にたどりつくまでに10時間も掛かったように感じた。しかし、実家の父母も私達が帰った当日に苦労を労ってくれた以降は、普通の「震災報道を観る人」だった。

私達は家族も友人も誰一人亡くしていない。
言うなれば「皿小鉢と家賃四万の借家を無くしただけ」だ。
けれど、震災直後、避難所のボランティアで炊き出しをせざるを得なかった程、“助かった”ということに罪の意識を感じてしまった私は、半年後に本格的な鬱になり、精神病院への入退院を繰り返す。実家に預けた幼い娘を連れて名古屋と大阪を新幹線で往復しながら、神戸港の修復に徹夜続きの設計技術者の夫は、お酒に頼るようになった。
小学校に入学した娘は、やがて登校を渋るようになり、それが震災12年後の今も続いている。

これが“遺族”ではない、“普通の人:たかが皿小鉢を失った人”の震災後だ。

報道は絵になる絵しか追わない。
西宮市一帯に煙のたなびく震災直後も、神戸長田の火事の映像プラス「その他市内100ヶ所を越える火事が…」の、アナウンサーの沈痛げな実況。煙の臭いの中に居る者としては、その100ヶ所の一つ一つの所番地を知りたい。友人知人の安否を知りたい。
それをしたのは神戸のラジオ局とNHKのみ。そのNHKも数日後にはオーム報道に中心を移して行った。

1.17は、我が家にとっては、12年後の今も「テレビを消す日」だ。

****************

私達には後悔してもしきれないことがある。

あの日、私達が避難していた甲陽園小学校。そのほんの鼻先には家の下敷になっていた人がいた。…いた筈。それなのに私達は避難所であんのんとしていた。
何故か。
二次災害で家族を失うのが怖かった。だから若い男手である夫に「行かないで、一緒に居て」と言った。

悔しい。
重機がなくても人手とスコップで救えた命を私は見殺しにした。

翌々日行った西宮市役所では、額に絆創膏を貼り腕を肩から吊った職員の方が出て来られた。「甲陽園小学校では毛布が余っているのでもっと必要な避難所に回してください」と言いに行っただけなのに。

地震は人間の力では絶対に防げない。

必要なのは、起こってからの「靴」と「軍手」と「勇気」。

その事を、震災記念日が、アニバーサリーが過ぎても報道して欲しい。
震災当事者の願いだ。

****************

友達が、先日の私の震災関連の文章を読んで、自分のブログに紹介してくれた。
「どんな報道よりも、心が実(ジツ)を伴ってふるえた」と。
有り難いことだ。
大学時代の芝居仲間の、根室に住むゆるりさん(本名別)。

実はあの文は、去年の1.17の少し前に書き始め、加筆修正して一応仕上げた。
震災直後に、作家の小松左京さん(多分神戸出身の方だったと思う)が、「報道は通り過ぎて行っても、各人のなかの震災は10年経っても終わらないだろう。一人一人が地道に細く長く書き続けて行って市民の記録を残そう」と、どこかの新聞の記事で呼びかけていた。
それで・・・。

自分の文を読んで誰かがこころを動かしてくれるのは、少し照れるけど本当に嬉しい。

2007.1.17  横内亜砂子



# by asamachiasako-726 | 2015-01-17 11:52